ディエジェシス(物語世界)
ディエジェシス(物語世界)
ディエジェシス(diegesis)とは、現代の物語論や映画論では、登場人物、場所、出来事、規則などが属する「物語世界」を指す言葉です。本文に直接書かれなくても、作中で実在すると推定できる事柄はその世界に含まれます。
ただし、古代ギリシャ以来の「叙述・語ること」という別の用法もあります。両者は歴史的につながりますが同義ではありません。本稿では二義を分け、「物語世界」を中心に述べます。
ディエジェシスの二つの意味
古典的な用法は、出来事を言葉で語り進める叙述に関わります。語源となったギリシャ語の動詞には「順に案内する」「説明する」「語る」といった意味があり、名詞は紀元前5世紀には言語による叙述を指していました。
プラトン『国家』第3巻では、ディエジェシスは過去・現在・未来の出来事を伝える物語の広い類です。その中に、詩人自身の声による叙述、登場人物の声を演じるミメーシスによる叙述、両者を混ぜた叙述があります。ここでミメーシスは単純な反対語ではなく、ディエジェシス内の提示方法でもあります。
一方、現代の映画理論や物語論では「作品が投影する想像上の世界」を意味します。フランス語では叙述様式の diégésis と物語世界の diégèse を分ける場合がありますが、英語や日本語では二義が同じ表記へ集まりがちです。「ディエジェシス」「ディエゲーシス」など表記も揺れるため、どの用法かを文脈で確かめます。
物語世界には何が含まれるか
物語世界には、本文に現れた人物や場所だけでなく、作中で存在する出来事、制度、因果関係、時間、空間も含まれます。主人公が訪れない北の町でも、手紙が届き、地図にも載っているなら、その世界に属します。
逆に、読者が目にするものすべてが世界内にあるとは限りません。現実の出版社名や読者向けの注記は、通常、登場人物が知覚する物ではありません。ただし、作中の編集者が付けた注なら世界内の文書になり得ます。誰にとって存在するかで判断します。
物語世界は、本文から読者が組み立てるモデルでもあります。鐘が鳴ると住民が店を閉めるなら、「鐘に従う慣習がある」と推定できます。設定をすべて列挙する必要はありませんが、推定を支える結果は必要です。
舞台設定・ファーブラ・物語階層との違い
ディエジェシスは関連概念と重なりますが、注目する範囲が異なります。創作では次のように分けると整理しやすくなります。
| 概念 | 中心となる問い | ディエジェシスとの違い |
|---|---|---|
| ディエジェシス | この作品内で何が存在し、何が起こり得るか | 人物、出来事、規則、時空間を含む世界全体 |
| 舞台設定 | いつ、どこで出来事が起きるか | 場所や時代を中心とし、世界の全要素とは限らない |
| ファーブラ | 出来事を時間・因果順に並べるとどうなるか | 世界そのものではなく、起きた出来事の連鎖に注目する |
| 焦点化 | 誰の知覚や知識を通して情報を選ぶか | 世界のうち、読者へ届く範囲と角度を調整する |
| 物語階層 | 誰がどの水準で語り、行動するか | 一つの作品に複数の内外の世界を区別できる |
本編の王女が英雄譚を読むなら、王女のいる本編世界と英雄譚の内側を分けられます。本が本編に存在することと、本の英雄が本編の人間として存在することは別です。英雄が王女の部屋へ現れれば、境界を越えるメタレプシスが起きます。
「一人称だからintradiegetic(物語内的)、三人称だからextradiegetic(物語外的)」とは決められません。これらは語りの階層に関わり、文法上の人称とは別の軸です。語り手が出来事に人物として参加するかも分けて考えます。
ディエジェシスを意識する効果
第一の効果は、読者が次に起こり得ることを予測できることです。魔法には記憶を失う代償があると行動で示せば、終盤で大きな魔法を選ぶ重みが伝わります。世界の規則が葛藤を生むため、設定が背景で終わりません。
第二の効果は、人物と読者の知識差を設計できることです。読者には王都の反乱を示し、辺境の主人公には知らせなければ、平穏な判断にも危うさが生まれます。住民だけが知る禁忌なら、会話や沈黙から規則を探る謎になります。
第三の効果は、境界の操作によって没入や違和感を作れることです。解説、章題、手紙、夢などが世界の内外どちらに属すかを整えると、読者は情報源を追えます。境界を意図的に崩せば、現実が不安定になる感覚も作れます。
第四の効果は、書かない範囲にも厚みを持たせられることです。硬貨、遠国の訛り、廃止された祭日が同じ歴史を指せば、説明のない場所にも生活を感じられます。情報量より、別々の細部が同じ因果へつながることが重要です。
物語世界を設計する手順
主人公の選択に必要な範囲から設計します。世界の規則は、それを破る、守る、誤解する人物がいて初めて物語上の働きを持ちます。
- 主人公が達成したいことと、それを妨げる条件を一文にする
- その条件を生む法律、慣習、技術、地理、過去の出来事を一つ決める
- 規則を知る人物、知らない人物、誤って信じる人物を分ける
- 規則が働いた結果を、台詞ではなく行動や損失でも一度示す
- 地図、記録、うわさなど、世界内で情報が移動する経路を決める
- 作中作や回想があるなら、本編との物語階層を図にして分ける
- 終盤の選択が、序盤に示した規則から生じるか確認する
「夜に名を呼ばれても返事をするな」という規則なら、由来の説明だけでは弱くなります。子どもの口を親が塞ぐ、戸籍から名を消した者だけが夜道を歩けるなど、生活と選択に結果を広げます。
短い創作例
港町では、死者の名を鐘に刻む。鐘が鳴るたび、刻まれた者の記憶が町の誰かから一つ消える。
鐘守のリオは、母の名だけが刻まれていないことを恥じていた。ところが、母の遺品から出た帳簿には、町中の鐘を鋳直した記録と、リオ自身の古い名が残っていた。
その夜、議会は反逆者としてリオの名を鐘へ刻むと決めた。リオは槌を持ち、母の空白の前に立った。
この世界には、港、鐘、議会、葬送の慣習、記憶を消す規則があります。重要なのは数ではなく、「名を刻む行為」が弔い、刑罰、記録の改変として働き、主人公の選択へ集まることです。
母が何をしたか、リオの古い名が誰の記憶から消えたかは未確定です。これは世界内に記録や記憶の欠落がある状態です。リオが帳簿や住民の反応を調べれば、読者も同じ世界の証拠から答えを組み立てられます。
世界の境界を読者へ伝える方法
境界を示す基本は、情報の受け手を明らかにすることです。「古文書にある」「劇場の観客だけが聞いた」「章題として掲げる」のように、登場人物が知覚するのか、読者だけが見るのかを区別します。
作中の音も分かりやすい例です。酒場の歌を人物が聞いて会話を止めるなら、音は世界内にあります。読者にだけ提示する音楽は人物の知覚と分けます。「ディエジェティックな音」という区別は、視覚、匂い、文書、声にも応用できます。
内側の物語へ移るときは、媒体、語り手、時制、見出しなどの印を一つ置きます。戻るときも、本を閉じる音や聞き手の反応があれば、読書行為と作中作を混同しにくくなります。混乱を狙う場合も、読み返せる手がかりは残します。
失敗しやすい点と注意点
最も多い失敗は、ディエジェシスを「作者が考えた設定の総量」とみなすことです。本文から推定できない裏設定は、読者が経験する世界を支えません。必要な規則は、変化した行動、物、言葉として作品へ現します。
次に、用語の二義を混ぜる失敗があります。古典を単純な「telling」、現代を「storyworld」と覚えるだけでは、用法の変化を取り逃がします。研究や批評では、著者がどちらを採用するか定義を確認します。
「Show, don’t tell」を絶対規則にすることにも注意します。場面として詳しく示す方法と、語り手が要約して伝える方法には、それぞれ距離、速度、焦点を調整する役割があります。研究上もtellingとshowingの厳密な線引きには一致がありません。重要な選択を場面化し、移動や反復を要約するなど、作品の目的で配分します。
世界の規則を終盤で追加すると、解決が偶然に見えます。例外を使うなら、序盤から失敗例、昔話、道具の制限などで示し、人物が代償を払って利用する形にします。既出の細部から導けるかを確かめます。
推敲チェックリスト
- 本稿でいうディエジェシスが、叙述と物語世界のどちらか明確か
- 世界に存在するものと、読者だけが見る表示や説明を区別できるか
- 主人公の目標を妨げる規則が、設定ではなく出来事を生んでいるか
- 規則を知る人物と知らない人物の行動に違いがあるか
- 本文にない裏設定を、読者も知っている前提で書いていないか
- 遠い場所や過去の存在を支える証拠が作中にあるか
- 作中作、夢、記録、本編の物語階層を見分けられるか
- 人称だけで語り手の物語内外を決めつけていないか
- 世界の例外や解決手段を、終盤で初めて追加していないか
- 説明する段落と場面で示す段落を、目的に応じて配分したか
- 固有名詞の多さではなく、因果関係によって世界の厚みを出せているか
- 読者が「次に起こり得ること」を予測し、結果に納得できるか
まとめ
ディエジェシスには、古典的な「叙述」と、現代の物語論・映画論でいう「物語世界」という二つの用法があります。本記事で中心にした物語世界とは、登場人物にとって存在する人物、出来事、時空間、制度、規則のまとまりです。本文へ直接現れない要素も含み得ますが、読者が推定できる根拠は必要です。
主人公を妨げる規則を一つ選び、知る人物、知らない人物、破った結果を決めてください。情報が誰へ届くか、作中作がどの階層かも整理します。設定が選択と結果を変えるなら、物語世界は物語を動かす仕組みになります。